世界で最も人気があるスポーツの一つであるサッカーは、日本でも競技人口が80万人を超える。この80万人の中からプロサッカー選手になるのはほんの一握りで、今シーズンJ1に選手登録されているのは2022年2月1日時点では555人のみと狭き門だ。数万人が観戦するスタジアムでのプレーは多くのファンを熱狂させ、イベントやメディアでもサッカー選手を目にする機会は多い。
一方で、引退して一線を退いた元Jリーガーの活躍はなかなか知られていない。Jリーグ屈指の人気クラブ浦和レッズには、そんな過去に所属した選手から成る「浦和レッズ選手OB会」があるのをご存じだろうか?
今回は浦和レッズアルムナイ(元選手)であり、「浦和レッズ選手OB会」の会長である都築龍太氏と副会長である水内猛氏に、前編ではお二人のキャリアやサッカー選手引退後のキャリアについて、後編では「浦和レッズ選手OB会」の活動についてお話を伺った。
都築龍太さん(写真右)
1978年生まれ、奈良県出身。国見高校を卒業後、1997年にガンバ大阪に入団。ゴールキーパーとして活躍し、2001年には日本代表に初選出。2003年に浦和レッズへ移籍すると、2006年の天皇杯優勝や、2007年のACL制覇に貢献。2010年6月に湘南ベルマーレへレンタル移籍した後、2011年1月に現役を引退。引退後の2011年4月に、埼玉県議会議員選挙に初出馬するも落選。4年間の浪人生活を経て、2015年4月のさいたま市議会議員選挙に初当選。二期目となる2019年4月のさいたま市議会議員選挙ではトップ当選を果たし現職。2021年3月に浦和レッズ選手OB会の会長に就任し現職。
水内猛さん(写真左)
1972年生まれ、神奈川県出身。旭高校を卒業後、1991年に三菱自動車工業へ入社。1992年には社員選手として浦和レッズに入団。フォワードとして活躍し、Jリーグ元年の1993年には7得点でチーム得点王。1994年からはプロ選手として活躍。1996年にブランメル仙台(現ベガルタ仙台)に移籍し、1997年に現役を引退。現在はテレビ埼玉浦和REDS応援番組「REDS TV GGR」で司会を務めるなど、スポーツキャスター、タレントとして活躍中。
議員とタレントとして対照的なキャリアを歩む2人
——最初に今のお仕事についてお伺いしたいのですが、都築さんは現在は議員として活動されていらっしゃいますよね。
都築:そうですね。さいたま市議会議員として2期目で8年目になるんですが、多岐にわたる活動ができる位置で仕事をさせてもらっています。もちろん、さいたま市のまちづくりという大きな枠組みの中になりますが、自分自身の強みを生かすという意味でも特にスポーツに関することには力を入れています。
——スポーツに関する活動というのは、具体的にどのようなことをされているのでしょうか?
都築:スポーツはさいたま市の様々な事業に非常に強く関わってきます。たとえば、スポーツを通じた健全な青少年育成はとても重要ですが、そのためには、土のグラウンドを人工芝化するなど、安全にスポーツに触れ合える環境の整備が必要です。
さいたま市はグラウンドなどのスポーツ施設も多いものの、活動するスポーツ団体の数も多いんです。子供たちだけでなく、そのような施設をさいたま市で行われる様々な大会などで利用できるようにもしっかり取り組んでいきたいですね。
そして、こういった取り組みの中で、さいたま市と浦和レッズの連携も強化していきたいと思っています。
——水内さんはテレビやラジオなどで活躍されていますが、どのような活動が中心になっているのでしょうか?
水内:僕は都築のように、これといって決まった仕事があるという感じではないんですよね。流れに身を任せるというか、常に自分は何を求められているのか、というのを考えています。
いろいろとやっていますが、テレビ埼玉の「REDS TV GGR」のMCはもう25年やらせてもらっていたり、やっぱり浦和レッズが自分の中で大きな軸となっていますね。
——他の仕事もサッカー関連が多いのでしょうか?
水内:もちろんサッカー関連は多いですが、それ以外にも広げていっています。たとえば、コミュニケーションをとりながら頭と体幹を鍛えて認知症対策をする「みずうち体操」というものをやっています。
あるスポーツクラブでサッカースクールをやらせてもらっていたのですが、その会社の方から認知症対策のメソッドのひとつであるシナプソロジーを紹介されたのが始まりでした。勉強してみると面白いと思い、自分なりのアレンジをして「みずうち体操」を作りました。
僕は人と話したり交流するのが大好きなんです。こうやってサッカー以外の活動に広がったことで、子供やサッカーをしている人だけでなく、高齢者やスポーツをしない方たちとも接点が増えているのはとても嬉しいですね。
ニーズが無くなったら気持ちを切り替えて求められるところで頑張るだけ
——サッカー選手を引退してから苦労したことはありましたか?
水内:苦労は無いと言えば無いし、あると言えば常に苦労の連続ですね(笑)。僕は、引退したあとにホリプロに所属しましたが、その理由はサッカー以外の仕事をしたいと思ったからなんです。でもいきなりサッカー以外の仕事が舞い込んでくるわけでもないですし、常に自分の求められているところを見つけて、そこで成果を出すことで次に繋げていく、というのを繰り返してきました。
僕は25歳で引退しているんですが、正直なところ選手としてもまだやれたと思います。でも、選手として覚えてもらっているうちに引退した方が、最初のうちはサッカーの仕事がもらえると思ったんですよね。その頃はまだ引退したJリーガー自体が少ないこともあり、想定以上にサッカー関連の仕事をもらえました。そしてその後は狙い通り、サッカーの仕事だけでなくドラマやバラエティなどにも出演することができました。
その後、同じバラエティ番組に2度目の出演をしたり、ワールドカップなどに出場した他の選手が引退して芸能界に入ってきたりすると、自分の仕事が減っていくことは想定していたし、それも想定通りとなりました。
サッカー選手って、結果を出せなくてチームから求められなくなったら仕事がないじゃないですか。それと同じで、いつか自分が求められなくなるっていうのは想定内だし、ニーズが無くなったら気持ちを切り替えて、求められるところで頑張るという割り切りはできているんですよね。
だからこそ、自分が求められるところでは全力で成果を出しにいくし、それが次の何かに繋がれば良いなと思っています。「みずうち体操」などで認知症対策をもっと頑張って、「なんで水内がサッカーじゃなくて認知症対策やってんの??」みたいな感じでもう一度テレビに出れたら嬉しいです(笑)
全てを捧げていたサッカーから引退した途端に志を失った
——都築さんはいかがですか?
都築:志と情熱を持って取り組める、やりがいがあることを見つけるのが一番苦労しましたね。僕は現役時代は引退した後のキャリアなんて全く考えていませんでした。そのため、引退した時に声をかけていただいて選挙に出馬を決めたんですが、今考えると志が低かった。落選して当然だったと思います。
落選した後、次の選挙を目指して4年間無職で頑張ると決めるまでに半年くらい悩みました。この期間は結構引き籠もっていましたね。落選して少し恥ずかしいという気持ちもあったし、あまり出歩きたくなかったんですよね。この期間が一番きつかったです。
でも、さいたま市のためにやろうという志が固まり、次の選挙を目指して頑張ろうと決めてからは一気に楽になりました。目標を決めたらどんな苦労があってもやりきるというのは、元サッカー選手として持ち合わせた力なのかもしれません。
サッカーしかやってこなかったので、意識を変えなければいけなかったことや学ぶことは多かったです。今となっては笑い話ですが、サッカー選手時代には握手は求められるものだったので、こちらから握手を求めにいくことも簡単ではありませんでした。支援者の方から、引退してからお辞儀の角度が変わっていった、とも言われましたね(笑)。
でも、そんなことは苦労には入りません。現役中はサッカーに人生の全てを捧げていたので、引退した途端に失った志を取り戻すのが大変でした。そういう経緯があって就いた仕事なので、とてもやりがいを感じて取り組んでいます。
水内:一回落ちて良かったよね(笑)。
都築:自分のために必要でしたね(笑)。
——引退したJリーガーの7割くらいがサッカー関連の仕事に就くとも言われています。サッカーを仕事にしようとは思わなかったんですか?
都築:セカンドキャリアとしては考えなかったですね。ありがたいことに、落選した後の2年間ほどは浦和レッズからもお声がけいただいていましたし、ゴールキーパーのスクールを自分で運営するというオプションも考えました。
どちらもやりがいのある仕事ですが、自分の場合は今までに全く経験のないことに挑戦をしたいと思いました。スポーツクラブの経営って、選手やコーチなどの目立つフロントだけではなく、営業や日々の運営などもとても重要で大変なところです。そのような組織とかサッカー界以外での経験がほぼなかったので、議員という道を選んだし、その選択は正しかったと思っています。
多くの人に助けられて今の自分がある
——アスリートのセカンドキャリア問題の対策として、デュアルキャリアなどもありますが、どのようにお考えでしょうか?
都築:とても重要な取り組みだと思います。一方で、プロサッカー選手としての自分を振り返ると、現役時代からセカンドキャリアを考えたり、デュアルキャリアで他のことを同時にする余裕はなかったですね。現役中はサッカーのことだけを考えて、引退してから1〜2年時間をかけて次のことを考えようと思っていました。
浦和レッズという偉大なチームでプレーできたし、日本代表にも選出されました。それでも、もっと真面目に練習しておけば良かったとか、もっとストイックにやっていれば良かったとか、もっとサッカーを頑張っていれば良かった、と思うんです。プロスポーツの世界で成果を出すというのはそれぐらい大変なことです。
サッカーのことだけしか考えずに打ち込んできたからこそ、チームからのオファーがなかった時は、心の底からやりきったと思えた。だからこそサッカーに未練はなく、切り替えて政治家としての志を見つけることができたんです。
そうやってアスリート時代は競技以外のことを考えないでくると、セカンドキャリアは失敗する人は多いかもしれません。それでも、その経験からサードキャリアやフォースキャリアにつながるものが見つかれば良いと思います。そういう意味では、僕の場合は浪人期間が無職としてのセカンドキャリアで、今がサードキャリアと言えるかもしれません。
——水内さんは、セカンドキャリアについてどうお考えでしょうか?
水内:自分の現役時代を振り返ると、もちろん都築と同じで、サッカーに関してはもっと真面目にやっていれば良かったとかって反省はたくさんありますよ。でも、それと同じくらい大切だし、今の自分に活きていると思うのが、色々な人と出会うことですよね。僕は遊びに行っていた時の人間関係とかに助けられて今の自分があるので。
都築:水内さんは、本当にそれが活きていますよね。僕自身も、引退前にアパレルショップでの仕事を経験させてもらったり、浪人時代に多くの方に声をかけて支えてもらったり、現役時代に知り合った人に助けられてきました。
水内:今の現役選手に「遊びに行け」とは言わないけれど、多くの人と出会うことは大事だということは伝えたいですね。僕の場合はたまたま遊びを通じて知り合ったけど、企業の方たちと知り合ったり、食事をしたりする機会はたくさんあるので、そういったところから人間関係を築いたり、社会について知ることも重要ですよね。
——そういったことが水内さんのセカンドキャリアに活きたんですね。
水内:それで言うと、僕はファーストキャリアが三菱自動車のサラリーマンなので、プロサッカー選手がセカンドキャリアなんですよね(笑)。でも、19歳とかでプロサッカー選手になる前に社会を知ることができたので、本当に良かったと思っているんです。
三菱自動車という大企業にはどういう仕事があるのかとか、午前中だけとはいえオフィスで仕事をする自分にどんなことが期待されているのかとか、そういうことを肌で感じることができました。
振り返ってみると、他にも社会について教えてもらう出来事がたくさんあったんですよね。例えば、練習後に初めて課長に六本木に呼んでもらったことがあったんですが、帰りは車を手配してくれたんですよね。手持ちのお金がないと焦っていたら、運転手の方に「既にお支払い済みです」と言われる。翌日課長に聞いたところ、会社が契約しているハイヤーだと知ってびっくりしました。
ところが、2年目からはハイヤーではなくタクシーになり、だんだんとそのタクシーを使える頻度も下がってくる。なんだろうと思っていたらバブル崩壊の影響だったんですよ。高校からダイレクトにプロサッカー選手になるよりも、こういった経験ができたことは今の自分のキャリアに繋がっていると思います。
後編:「浦和レッズ選手OB会」が目指すのは、お互いを使い倒す関係
※インタビューでは写真撮影時のみマスクを外しています。